2015,9,29/感謝する人たち2
「感謝する人たち1」のつづき。
2人目は修業時代の「坂本伊久太」大親方だ。
当時70歳。
リヤカーで日本橋を渡って三越に納品なんて時代から、総勢30数名の日田工芸を50年続けた強者だ。
当時の俺は22歳。
通わせてもらったインテリア・建築の学校を無事に卒業することになった。
なぜか自信満々。根拠は無い。
進路に迷う。
どーせ頑張るんだったら世界一まで成り上がりたい。
デザイン、建築、インテリアどれも魅力的だがアホな俺にはどうやって成り上がるのかわからない。
なぜなら、クライアント無しでものづくりする事ができない。
でも家具だったら工房さえあれば、商売になるかどうかは別として好きな物をつくって発信する事が容易だ。
子供の頃から手先の器用さには自信があったし、単純に現物をまず自分で好き勝手に創れた方が手っ取り早いと考えた。
そうして、修業期間は3年と勝手に決めて家具職人の門を叩いたのである。
面接の時「3年で独立します。」と言った。
そこにいるみんなの目が点になって一瞬後、笑いになった。
そして「お前はバカか?修行は最低10年だ!」
「同じハカリに乗せないで下さい」と答えた。
また、目が点になって笑いになった。
「じゃあ便所掃除からやってもらおうか?」
で修行スタート。
頭を剃って気合い十分。
でも空回り。
俺。。なんにもできねえ。。。
あまりも不出来だった。
自分でビックリした。
自信は一瞬で砂より細かくなった。
三ヶ月後に怪我をした。
「失敗も多い。怪我までする。もうクビ」と言われた。
「何でもします。もう少しだけ面倒見て下さい」で首の皮一枚つながった。
職人はスポーツ選手に近い世界だ。
早い遅い。上手い下手。が一目瞭然。
怪我の多い者はそもそも使えない。
当然誰も心配なんかしない。
ポジションは出来る者が勝ち取る。
先輩は若手に技術指導などしない。
みんなライバルだ。
プロなんだから出来て当たり前。
褒められる事なんて無い。
想像よりもずっと厳しかった。
なにより自分が恥ずかしかった。
でも、目標は変えない。
絶対3年だ。
その12月に俺は父親になった。
逃げられねえ。
おかげで腹が括れた。
こんだけダメだと清々しくもあった。
日本で一番家具づくりに時間を使おうと思った。
誰よりも早く行って、始業前に鉋や鑿など道具の練習。
誰よりも遅く残って、家具づくりの練習を兼ねた作品づくりを毎日やろうと決めた。
メシ食ってるときも電車の中でも。
出来れば寝てるときも。
いつでもその事で頭を一杯にしよう。
んで毎日20時間と決めた。
生まれて初めてマジでやろうと決めた。
でも、変わらず失敗ばかり。
毎日怒られる。
「ヘタクソ。帰れ。もう来んな。」の3段活用は日々の事だった。
一年経っても変わらなかった。
さらに半年が経った夜。
22:00を過ぎた頃、いつもの居残り自主練習。
電気代の節約ということで広い工場の中、電気は自分の作業スペースだけ。
半径5メートル先から闇が広がる。
正直ちょっと怖いが、それどころじゃない。集中して作業に打ち込む。
闇と光の境界線に足が見えた。
ドキッ!として固まる。
パジャマ姿の大親方だった。
「ま〜だやってんのか〜?!」
「・・・・すんません。」
「1年半毎日やってるな〜!いや〜それにしてもオマエ根性あるな〜!一年もたねえと思ってたのに〜」
修行開始からはじめて人にほめられた。
いや。一生懸命打ち込んだ事そのものがはじめてだったから、本当の意味で褒められたのは人生で初かもしれない。
うれしかった。
「あと半年がんばれ。オマエに環境をやる。」
なんて言って帰って行った。
その後、夜な夜な作った作品が朝日新聞主催のクラフト展で入選。
新宿伊勢丹や日本橋三越で作品発表となった。
そして半年。修行開始から2年が経っていた。
朝の朝礼で大親方からの発表。
「50年やってきて初めての試みだが、開発部をつくる。」
・・・・
「デザインから製作まで松岡1人に任せる。」
っえ?何だ??
「ただし条件は最低3日に2脚のペースで新作椅子をつくること。出来なきゃすぐに降格。」
はい??マジでなに言ってんだ?
よく分からないまま怒濤の日々が始まった。
帰宅後デザイン案を6つ描く。
朝、大親方にプレゼン。
2つ選んで、よーいドンッ!!
2〜3日で仕上げる為には完璧な段取りと10時間の集中力。
失敗は許されない。
朝と夜の自主練習は決めた事なのでやめない。
そうするとスゴい日々になる。
6:00起床。
電車の中で今夜のためのスケッチしながら出勤。
駅から会社までの自転車20分はその日の段取りを頭の中で反復イメトレ。
7:30出社したら道具の手入れとその日の仕事の準備。
8:30仕事開始。なんせ新作を3日で2脚。尋常じゃない。
18:30作業終了。ここから自主練習タイム。
22:00帰社。
自転車に乗りながら翌日の段取りを頭に叩き込む。
電車の中で今夜のためのスケッチ。
23:30帰宅。デザイン案を描く。
2:00寝る。
の毎日。
とんでもなく幸せな毎日だった。
今振り返っても家具職人として今までで一番恵まれた環境だったと思う。
自分でも実感できる成長速度は、日々生まれ変わっているような感覚だった。
営業さんも積極的に売ってきてくれて、結果も出た。
こんなチャンスをくれた大親方の期待に応える事ができて嬉しくもあり、ホッとした。
半年が経った。
いつのまにかそのペースに馴れてきた。
職人としてこれ以上に恵まれた環境はあるのか?
自問する。
雇われの職人としてはこの上ないな。の結論に至る。
もっともっと家具づくりがしたかった。
じゃあ独立するしかねえな。
その日に辞表を書いた。
大親方は当然だが驚いた。
「この環境に不満があるのか?!」
「もっと挑戦したいんす。」
「給料増やしてやる。」
「金はいらねえっす。」
「飽きちゃったのか?」
「飽きちゃいました。」
「最初っから3年って言ってたもんな。。」
「すんません。。」
とんでもなく身勝手ではあるが、数ヶ月後の退社が決まった。
大親方はすごく悲しい顔をしていた。
俺は「もっともっと」しか考えてなかった。
直後、大親方は実務を退き会長職になった。
三年後、日田工芸は廃業することになる。
あれから13年。
俺も経営者として人材育成をする立場。
だから余計にわかる。
ただ悲しかったろうなと思う。
今、家具職人として居られるのはチャンスをくれた大親方のおかげだ。
あの怒濤の日々は、数十年の経験に匹敵するほど濃密な時間だった。
上の写真は2011年に大親方にとって思い出深い場所でもある新宿伊勢丹リビング売り場のメインステージで初めてkoma展をやらせてもらった時。
俺の送り迎えで招待した。
喜んでくれた。
今も必ず年に一度のごあいさつは欠かさないようにしている。
「50年会社を続けられたのは自分に何の才能も無かったから人に感謝が出来た。お前はどうだ?感謝できるか?」
「苦しいときは会社が成長してる時。楽なときは会社が停滞してる時。お前が選んでそうしてるんだろ?だったら苦しがるな。」
毎年いろいろなアドバイスをもらえる。
83歳になった大親方は耳が遠いので俺の話はほとんど聞こえない。
だから、俺が意見も質問もすることはない。
ニコニコしながらしてくれる一方的な話をただただ聞くのだ。
今年が最後かもしれないと毎年思う。
だから、聞いて咀嚼することにだけに集中する。
年に一度のこの機会は、自分が納得しないと気が済まない俺にとって貴重な時間だ。
今年ははじめて俺が酒をおごらせてもった。
別れ際「きちんと職人を続けてくれてありがとう」なんて言われた。
この仕事を選んで続けてきて良かったと思える一言だった。
「技術を繋いでいく」ってことが恩返しだと解釈している。
とにかく感謝している人だ。
そんなふうに希望を抱いて独立した俺だったが、地獄が待っていた。
当然、本当に多くの人に助けてもらえたから13年続けてこれてるわけだ。
3人目にいく前に。
修業時代の事を思い出したら、家具づくりがしたくなった。
今は家具づくり以外にもやることがいっぱいで、そればかりに打ち込む事はできない。
でも、ちょっと挑戦してみたいものがある。
100年杉の椅子につづく。