緑川 敬二郎|木製椅子|木工家具職人|松岡茂樹blog|2016,3,14

オーダー家具|無垢家具|東京の家具工房【KOMA】

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2016,3,14/感謝する人たち4




松岡家の子供達のつづき。



【感謝する人たち4


御歳73歳の緑川 敬二郎さん。

誰よりも最高にカッコいいと思う人だ。

「ただの明日じゃない。人に会う約束がある明日だから今日も生きてるんだ。」
なんて言う人なつっこくて底抜けに明るい人だ。

家具業界で50年以上生きてきた人に対して俺ごとき小僧が大変失礼な物言いだが、彼にはこれと言って特筆する目に見える特技も華々しい実績も分かりやすい立場も無い。

職人でもなくクリエイターでもない。
あえて言うなら営業かな?
「家具業界に生きてる人」なのだ。


現在KOMAは、ありがたい事に各方面で活躍されている大先輩方に叱咤激励とともに可愛がってもらっている。

彼らはそれぞれに才能豊かでいつも多くの刺激を頂くと同時に様々な機会を与えてくれる。
尊敬もしている。

でも、その誰よりも俺にとって最高にイカしてるのが緑川さんだ。



日田工芸の勢い余った若い衆という感じで、俺の事は修業時代から知っていると言っていたのを覚えているが、正直に言うと緑川さんとの出会いの瞬間や切っ掛けは覚えていない。


気が付けばいつの間にか何となく側にいてくれた。

そして今は本当に感謝している人だ。

分かりやすい特技や華々しい実績もない。

だから俺みたいな阿呆は中々そのありがたさに気が付かなかった。




2007年。
俺が29歳の頃。

2003年に開業したKOMAは多くの人に助けてもらいながら建設業者やリフォーム業者、店舗内装業者の下請けをしながらどうにかこうにか生き残っていた。

その頃は店舗什器や新築の壁面収納家具工事など造作家具も多く造っていた。

まあ、今だから言うとまあまあ儲かっていた。

下請けというのは元請けに対するほんの少しの営業以外は製作だけに集中できるので、ある程度の固定客が開拓できていれば余計な経費は掛からない。

エンドユーザーに対するアプローチは宣伝広告費、ショールームの維持費、広報、販売、企画、営業などの様々な人件費を抱えながら元請けがやってくれている。

それなりに技術もあったし規模も3人。
自分たちの食い扶持くらいの仕事量は人の協力もあってすぐに確保できた。

自分たちにしか出来ない仕事からやっていって、残った簡単な仕事は職人仲間に発注する。
要するにカタチの上では仲間に孫請けさんになってもらう。
職人同士だから阿吽の呼吸で、製作に関わる打ち合わせなどが必要ない。

だから、製作図面をFAXしておしまいだ。
右から左で10%〜30%の利益。

こんなウマい話はない。


そうだ。
本当にウマい話なんて無いのだ。

当然しっぺ返しを喰らう。


またドン底に落ちる。


今思えば、この頃は墜落寸前から人並みにメシが食える様になれた事がただ嬉しかったのだ。
でも、なんだか地に脚がついていなかった様に思う。



KOMAのような小さな製造業にとって世間の景気動向などはほとんど関係ない。

リーマンショックや構造計算書偽造問題などで業界の仕事は減っていたようだが事件当時は全く関係なかった。

取引先の建築業者などが体力の尽きた順に次々と倒産し始めた2008年あたりからなんとなく意識するようになった。


ある日突然、取引先と連絡がつかなくなる。
気付いた時にはもう遅い。

そして後日、弁護士からの倒産の通知が送られてくる。

当然、金は支払われない。

不良債権だ。

100万の取引先もあれば300万なんていう取引先もいた。

合計で2000万円近くヤラれた。

もらえないけど、こっちは支払いがある。

ヤッちまった。。。



入金がゼロで支払いは600万なんていう月もあった。

月末の支払いを考えると柄にもなく眠れなかった。

夜中に一人、缶コーヒー片手に川沿いのベンチで貧乏揺すりをしながら過ごした。

つい先週までニコニコ話をしていた取引先の社長や担当者たちの顔が浮かんだ。

「畜生クソッタレ」を何千回も唱えた。

それにしても9月の雑草に覆われた川沿いで夜中、一度も蚊に刺されなかった。
蚊にとっても血が毒に感じる程、ものスゴい負のオーラを発していたんだろうと思う。


とにかく払う。

出来なきゃおしまい。

一ヶ月でどうにかするしかねえ。



これだけ決めて朝を迎えた。


助けてくれたのはやっぱり仲間たちだった。


ATOMリビンテックの上田さんをはじめ、事情を聞いてくれた仲間たちが在庫の家具を現金で買ってくれた。

支払いに追われる月は続いたが、どうにか首の皮が繋がった。

本当にありがたい。
やっぱりどこにも足を向けて眠れないから立って寝るしかない。


当然、貯金はゼロになって振り出しに戻ったが大きな経験ができた。

仲間のありがたさを知った。

オイシイ話は続かないってことも。笑



思えば、そんな仲間たちとの最初の出会いの切っ掛けをつくってくれたのが緑川さんだった。



ただ、事態は終わらない。

元請けが倒産したと同時に多くの下請けたちも潰れた。

しかし、孫請けとして発信や集客、営業などに余計な経費を掛けず、地道にコツコツ製作に集中してきた人達の多くが生き残った。

それが意味するものは相場価格の値崩れだ。
孫請けさんたちの価格が表に出てくる。

依然として少ない仕事量に対する価格競争が始まる。


とてもじゃないけど太刀打ちできない。



2009年

独自路線を目指すしかない。

俺らだけの強みを活かそう。

無垢の家具で勝負しよう。

俺らにしか出来ない仕事をしよう。

KOMAオリジナル家具をエンドユーザーに直接アプローチしよう。

その為には会社として足りない機能が多くある。
会社規模も3人じゃ足りない。

すぐに切り替えられる訳ではないが、今のままじゃ潰れる。

時間がない。


家具は造れるけど売り方が解らない。
見て知ってもらえる機会と場所がない。
そして経費や時間、労力にも限りがある。

最低限の商品や在庫は用意できて少しずつは進んでいたが、コレといった機会のないまま1年半が過ぎた。

焦っていた。

そんな時2011年4月。
当時疎遠になっていた伊勢丹との関係を繋いでくれたのも緑川さんだった。


新宿伊勢丹リビングフロアのメインステージ45平米のスペースで「KOMA家具展」を2週間。
最高の環境だった。

震災3,11の直後ということもあり売上目標の300万も売れるだろうか?と心配だった。

結果は450万。

俺たちだってヤレるじゃん!!

ただただ嬉しかった。



その後、各業界の大先輩方から多くの刺激と共に多様な機会を与えてもらえるようになった。


それらのプロジェクトでの実績がまた次の仕事を呼んでくれた。


そんな尊敬する彼らとの最初の切っ掛けを生んでくれたのもやはり緑川さんだった。



人や機会を紹介する場合。
あたりまえだが普通は「紹介してあげる」という立ち位置だろう。

緑川さんは違う。

「松岡〜めんどくせえかもしれねえけど、俺を助けると思って来てくれよ〜オマエしかいないんだよ〜」だ。

いつもこう言って人や機会を繋いでくれていた。

そしてウマくいったら「さすが松岡〜!頼んでよかった〜!」だ。


恩を着せるなんて一切ない。


「俺なんかさ、な〜んにも無えけどさ、こんな俺でもさ、俺にしか出来ない事があるんだよ。」

そう言う緑川さんは自分の「分」の中で清々しく生きている人の代表格だ。

際立った特技や才能など関係ない。
彼の心に比べればどれも陳腐なもんだ。


そんな緑川さんが言うのだ。
「あと10年現役でいたいんだ。だってまだまだ自分自身に納得いってねえんだよ」

カッコ良すぎるぜ!
イカしてる!


そんな緑川さんはちょくちょくKOMAの工房に顔を出してくれる。
たまに飲みに行ったりもする。

色々なアドバイスをくれるが、俺は聞かない。

「うるせえな〜俺にクチ出しすんじゃねえよ〜笑」なんて生意気を言うと
「ハハハ〜それが正解!お前の好きにヤルのが業界の未来だ!」な〜んて言ってくれる。

でも彼が言ってくれた事は全部覚えている。

亀井とギクシャクしてる時。
「お前は幸せだな〜文句が言いあえる仲間がいるんだもんな〜」

若い衆に腹を立てている時。
「同じ事を何度も言えばイイじゃないの〜それがお前の勉強になるんだからさ〜」

そして

「今日も松岡に会えて良かった。良い話が聞けた。勉強になった〜」

なんて彼の倅よりも年下の俺に言って帰っていくのだ。


彼が繋いでくれているバトンを俺が次に繋ぐ為に、
俺はもっと良い家具をつくろうと思う。



「バトンを繋ぐ」につづく。