2016,5,12/お陰様々
第一期終了
製造業の苦楽のつづき。
「オマエは中途半端に才能があるから可哀想だ。全部自分で出来ると思ってるだろ?だから本気で感謝ができないだろ?」
4年前に大親方に言われた事だ。
本人には何にも才能が無くて何も出来なかったから全部の事が本気で人に感謝できたそうだ。
そして、それこそが中途半端な才能なんかよりはるかに強力な能力で、これだけで50年会社を続けてこれたそうだ。
「オマエの環境を創るのはオマエじゃなくて周りの人だ。敬意が無ければ人は動かない。だから感謝できないやつは大きくなれない」
と言われて4年も経ったが、あれから環境に大きな変化が無いってことは俺自身にも成長が無いのだろう。
先輩後輩に関わらず自分のやるべき役割に必死な人の姿勢やその魂には、いつも心の底から敬意と感謝の気持ちで一杯になる。
その為だったら死んでもイイって思ってるような人たちにはやっぱりシビれる。
一つの信念が全ての選択の中心にあって、それを体現、具現化できている人の姿を見れるだけで感謝できる。
ただ、スゲー頑張ってる人を見ても何とも思わない。
誰だって頑張ってるし頑張ってない人を見たことがないからだ。
「必死」と「スゲー頑張」るには1%とその他99%の大きな差があるように思う。
必死でなければ「経験」など出来ないと思っている。
頑張って得られるもののほとんどが「体験」である。
インプットするだけでもなかなか大変だが、それらのほとんどが体験だ。
インプットには対外的な評価は得られず結果も得られない。
まだ自己満足だ。
誰かに伝える為のアウトプット。これは難しい。
得たものを咀嚼し消化吸収して、自分のモノにしなければ表現は出来ない。
言葉、文字、企画書、絵、何にしても人にきちんと伝えようと思ったら本当に難しい。
それでもまだほとんどが体験だと思う。
そのアウトプットに対しては必ず評価があり結果がでる。
その結果には色々な尺度と角度があるがどうであれ必ず反省点がある。
その反省の先が体験から経験に繋がっていく第一歩だと思う。
反省点を活かして次の結果を得る。
その分だけ少し解消して、また次の課題が見つかる。
その繰り返しが経験だ。
だからそうそう経験なんてつめないのだ。
やってもやっても成長しない。
努力と得た結果を比べると割に合わないような気がしてくるが、こんなもんなんだろう。
大親方は「感謝」っていうキーワードを必死に体現してきたんだろう。
社員達の再就職先をきちんと用意してから日田工芸を廃業したのも社員達に対する最後の感謝の表現だったんだろうと思う。
そう言えば先週。
お客さんの指定で初めての材木問屋さんから仕入れたのだが、寸法もままならない酷い製材で反りやワレの多さにも驚いた。
お陰でいつもの材木問屋さんの有り難さに気が付いた。
当たりまえに思えていることの全てが誰かのお陰様々なんだな〜なんて何か問題があったときだけ都合よく思い出す。
う〜ん。やっぱり成長してねえな。
一年ぶりに大親方のお説教でも聴きにいこうと思う。
これにて、しばらく記事を書くのはおやすみしようと思います〜